《干渉》と《愛》の区別について

【本日のリマ】

ペテロの手紙第一4章15節
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。

【追記】

まず冒頭の聖句で、人殺し、盗人、危害を加える者、これらの者になって苦しむことがないように。

これらは、どれもモーセの十戒で神様が示される通りです。

さらに、ペテロは、他人のことに干渉する者となって、苦しまないようにと、付け加えます。

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ここで、《干渉》について、考えましょう。

ペテロは、冒頭の聖句の前に、こうとも言っています。

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。(ペテロ第一4章8節)

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この《愛》と《干渉》は、行動だけみるとよく似ています。

どちらも、相手と関わることです。しかし、その結末が違います。

ペテロが言うように、《干渉》は苦しみに終わり、《愛》は多くの罪をおおう、となります。

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もしも愛しているつもりで、感謝できない苦しみを感じるなら、それは《愛》ではなく《干渉》だったかも知れません。

かと言って、そんな干渉の苦しみを避けるあまり、愛さないで平気になれば、それも本末転倒です。

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では、似て非なる《干渉》と《愛》を、どう区別したらよいのでしょう。

一つ言えることは、《干渉》の背景には、相手よりも自分の思いが強くあることです。

一方、《愛》の背景には、まず神様があって、そこから生まれる相手を幸せにしたいという思いがあります。

愛のかたちが様々なように、ここでの答えも、人それぞれだと思います。

《干渉》と《愛》の区別について、時間があるときに考えてみることをオススメします。