行いを義とすれば自分を誇ることになる

【本日のリマ】

ローマ人への手紙4章2節
もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。

【追記】

パウロは、極端な行動主義について、注意をしています。

《善行をするから神様が義と認めて下さるのだ》と、考えればどうなるでしょう。

それは、善行に対して義という報酬をもらったことになります。

一種の契約、つまり仕事の関係になります。

仕事に対して報酬をもらうのは当然です。

仕事をした自分のことを誇ります。

一方、義としてくださった神様のことは、当然の報酬なので忘れます。

さらに、人は善行をしないかぎり、義という報酬を得られないと考えます。

行き過ぎれば、奪い合う関係になります。

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どこで、間違えたのでしょうか。

実は、神様は、人の小さな善行にも、大きな義を与えてくださっています。

等価交換の報酬ではありません。そもそも仕事の関係ではないのです。

信頼の関係なのです。神様が私たちを信頼されたのです。

その神様の信頼を実感するから、人も神様を信頼します。それが信仰になります。

そうして、神様から思わぬものを与えられていると、まわりの人にも善いものを与えたくなります。

それが愛になります。

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行動だけに走って、信仰を見失ってはいけません。

小さくとも信仰を先に立てて行動すれば、行く道を間違えません。