【本日のリマ】
テサロニケ人への手紙第一4章17節
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
【追記】
冒頭の聖句で、パウロは、自分が生きている間に、主の再臨があると言っています。
しかし、それは歴史の現実とは異なり、パウロたちの肉体が生きている間に、主の再臨はありませんでした。
そうすると、この聖句の全体も、歴史の現実を預言したとは言えなくなります。
イエス様の言葉の多くがそうであったように《比喩》をもって、その文字よりも深い真実を預言されたと考える必要があるでしょう。
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そのような《比喩》は、初臨のイエス様の降臨を預言するダニエル書にもあったことだからです。
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。(ダニエル書7章13節)
預言者ダニエルは、イエス様が《天の雲》とともに地上に降臨される姿を、夜の幻に見ています。
この預言を文字通りに信じれば、初臨のイエス様は、天から地上に降臨されなければなりません。
しかし、イエス様は、マリヤの胎から赤ん坊として産まれたことが、歴史の現実です。
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イエス様の当時、ダニエル書の預言を文字通りに考えた人は、初臨のイエス様を、来るべきキリストと知ることはなかったでしょう。
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預言者ダニエルは、預言の場面を《夜の幻》で見ています。
預言者ダニエルが《夜の幻》で見たことは、彼の霊眼をもって見た《霊的な真実》と考えられます。
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冒頭の聖句に戻って、パウロが言った《生き残っている私たち》の箇所を考えてみましょう。
《生き残る》は、肉体のことではなく、霊的なことと考えることもできます。
キリストを信じ続ける人は、肉体の生死にかかわらず、霊的に生き残る人です。
パウロの聖句それ全体も、預言者ダニエルのときと同様に、肉的に起こる現実ではなく、彼の霊眼をもって見た《霊的な真実》であると考えればよいかと思います。
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初臨のイエス様が、ダニエル書の預言通りに霊的には地上に降臨しつつ、母の胎から赤ん坊として産まれたようにです。
再臨のキリストも、霊的には地上に降臨しつつ、母の胎から赤ん坊として生まれると考えても無理はありません。
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いずれにしても、黙示録3章と16章で、再臨の主は《わたしは盗人のように来る》と言われています。
もしも、歴史の現実として再臨の主が天から降りてきたら、盗人のように人に知られずに来ることはできないだろうと感じます。