《罪の奴隷》と《義の奴隷》

【本日のリマ】

ローマ人への手紙6章17節~18節
神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。

【追記】

冒頭の聖句で、《罪の奴隷》と《義の奴隷》とは、どんな状態のことでしょうか。

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イエス様は、《罪の奴隷》について、こう言われています。

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。(ヨハネ8章34節)

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どんな悪人であっても、神様は良心を与えています。

罪を行えば、その良心に呵責が生じるようになっています。

良心の呵責は、罪を避けるための警笛であって、神様による善なる作用です。

しかし、その良心に従わずに罪を行えば、神様から離れて本心は苦しくなり、不自由になります。

この罪にとどまった不自由な心の状態が、《罪の奴隷》でしょう。

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一方、《伝えられた教えの規範》に自らの自由意志で従うことは、良心にかなうことであって、人は神様に近づいて安心と喜びを得ます。

この状態こそ、本心からの自由を得た《義の奴隷》の状態です。

《義の奴隷》は、奴隷とはいっても、自らの自由意志で義に従います。

自由意志で進んで善行を行うボランティアのような状態ですね。

《罪の奴隷》の罪から開放されて、自由な状態です。

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※ある方からアドバイスいただきました。

《義の奴隷》については、《義のしもべ(義に仕える者)》と解釈するのがよいようです。