愛と義の神様

【本日のリマ】

アモス書7章3節
主はこれを思い直された。そして「そのことは起こらない」と主は言われた。

【追記】

アモス書7章1節~9節は、およそ次の内容です。

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一番目の時、王が刈り取った後の二番草が生える頃に、主はイナゴ(KJV版聖書ではバッタ)を準備します。

イナゴによって、地の青草が食い尽くされようとしています。《蝗害》です。

主は、このことをアモスに知らせます。

アモスは、民を代表して、主に赦しを請います。

神、主よ、どうかお赦しください。ヤコブは小さくて生き残れません。(アモス7章2節を参照)

ヤコブとは、ヤコブを先祖とする12部族のことでしょう。

《生き残れない》という命乞いに、主は思い直されます。

地の青草は食い尽くされず、民は生き延びることができました。

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二番目の時、主は、責める火を呼ばれて、割り当ての地を焼き尽くそうとされます。

主は、このことをアモスに知らせます。

アモスは、民を代表して、主に赦しを請います。

神、主よ、どうかおやめください。ヤコブは小さくて生き残れません。(アモス7章2節を参照)

《生き残れない》という命乞いに、主は思い直されます。

焼き尽くす火は起こらず、民は生き延びることができました。

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三番目の時、主は、アモスの前に《下げ振り》を持って現れます。

《下げ振り》は、オモリをひもに吊り下げたもので、柱を垂直にまっすぐ建てる際に測るものです。

義なる神様として、民が正しい生活をまっすぐにしているかを測ろうというわけです。

そして、主は、民はイスラエルの聖所を顧みず、聖所は廃墟になると判断されます。

それゆえに、主は、『ヤロブァムの家(北朝イスラエル)に剣をもって立ち上がる』と、言われます。(アモス書7章9節を参照)

アモスは、このときは、主に赦しを請いません。

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一番目の時と、二番目の時は、愛なる神様として、民を赦します。

このときに、神様は、《アモス一人の命乞い》という小さな代償をもって、それ以上に大きな赦しを民に与えています。

この《小さな代償》と《大きな赦し》との差を埋めたものは、神様の愛にほかなりません。

一方、三番目の時は、義なる神様の《下げ振り》を前に、アモスには命乞いのすべがありませんでした。

アモスには、命乞いをしても、民が神様の前に立ち返らないことが分かっていたからでしょう。

義なる神様の前にたっては、アモスに民をかばうすべがなかったのです。

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ここに、愛と義という神様の揺るぎない位置を知ることができます。

愛だけでは義が立たず、義だけでは愛が立ちません。

神様が、《愛》と《義》の両方を立てられるからこそ、《愛と正義に満ちた世界》が永遠に維持されると感謝いたしましょう。