敬虔であるとは

【本日のリマ】

テモテへの手紙第一6章6節
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。

【追記】

テモテ第一6章3節~6節は、およそ次のような内容になります。

キリストの言葉は、《健全》です。

そして、キリストの教えは、《敬虔》を伴います。

その《敬虔》にもかかわらず、キリストの教えで議論や言葉で争うなら、それはキリストによらずに高慢になっている証拠です。

その高慢から、ねたみ、争い、ののしり、邪推が、生じます。

言い争いを絶え間なく繰り返し、出口がありません。

このような高慢な人の特徴は、自分を義とする知性のため、真理がないということです。

その状態で敬虔を装っても、それは相手の歓心を求める、その日かぎりの利得にしかなりません。

キリストの教えに伴う《敬虔》は、人の心を満ち足りるものとし、自発的にこうべを垂れる《敬虔》となります。

その《敬虔》こそが、神様が創造された世界から受け入れられて、大きな利得を受ける道につながります。