収穫のための《働き手》とは

【本日のリマ】

マタイの福音書9章37~38節
収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

【追記】

何の努力もなく、収穫できることはありません。

収穫より前に、土作りがあって、種まきがあって、外敵(イノシシ?)の食害を防いで・・

その努力の上で何倍にも増えて収穫になります。

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ここでイエス様が言われる《収穫》は、外的な発展の実を指すだけではありません。

《収穫》には、キリストによって心が耕されて成長し、実を結すぶ人々も含まれます。

このように人の心を耕して成長させることができるのは、神様とキリストです。

完全でない人間にできるわざではありません。

神様から見れば、一人一人はどんぐりの背比べです。それで一方が上から目線ではうまくいきません。

その上、神様不在で相手を導けば、相手は、導いた自分以上にはなりません。

弟子は師以上にはならず、しもべも主人以上にはならないからです。(マタイ10:24参照)

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では、収穫のために神様が送る《働き手》とは、どんな人か考えました。

キリストを目標にしてお互いの成長を支え合って、一緒に成長できる仲間のことかと思います。

上っ面だけの仲良しではなく、時には相手のために嫌われることを言う責任を担います。

そして、本当につらいときは、一緒に涙を流して支えます。

それが《働き手》としての伝道者の心構えとして、具合良いかと思います。