全焼のささげ物

【日々のレーマ】2022年12月22日(木)

エゼキエル書40:38
門の壁柱のそばには戸のある部屋があり、そこは全焼のささげ物をすすぎ洗う場所であった。

【追記】
捕囚の身のエゼキエルは神様の御手に引き上げられ、いずれ地上に来るエルサレム神殿を見せられます。

本日の聖句は、その神殿の中で【全焼のささげ物】をすすぎ洗う洗盤の場所のことです。

全焼(燔祭)のささげ物は、傷のない牛や羊やヤギの雄を切り分けて全て焼き尽くすという、犠牲を示す行為です。

イサク献祭も全焼のささげ物です。
神様は、アブラハムに息子イサクを全焼のささげ物にすることを命じます。そのことでアブラハムはモリヤ山まで三日の道中を苦しみ、イサクは自分のために苦しむ父を知って逃げずに従います。そして、アブラハムが刃物をとってイサクを屠ろうとしたとき、父子一体で犠牲になろうとした信仰を神様は知ります。そして、主の使いを通してイサク献祭を中止させます。(創世記22章)

また、牛などを買う経済的な余裕がなくても、家鳩や山鳩を全焼のささげ物にすることが許されます。
ヨセフとマリヤは、律法に従って幼子イエス様を主に奉献するためエルサレムに行きます。
そこで、山鳩と家鳩を全焼のささげ物にしています。(ルカ2章)

レビ記1:3には、全焼のささげ物をする際の注意として【その人は自分が主の前に受け入れられるように】と書かれています。

この日本語の訳からは、どうしたら「その人は主の前に受け入れられる」のかまでは、読み取れません。

この「受け入れられる」のヘブライ語raw-tsoneには、もともと「喜ぶ」や「自分の意志」という意味合いが含まれます。この点、KJV版の英語聖書はハッキリと「his own voluntary will(自らの自由意志で)」と訳しています。

そのニュアンスで勝手訳させていただくなら・・

全焼のささげ物をする際には、【その人は~自らの自由意志で喜んで犠牲になる気持ちを捧げることで~主の前に受け入れられるように】となります。

日常の生活や仕事において(誰かのために)犠牲を強いられる場合がありますね。

その犠牲が神様に全焼のささげ物として取られるためには、【強制された】ではなく、自らの【自由意志】と【喜び】をもちましょう。途中の大変さは変わらなくとも、結果が善になります。