【日々のレーマ】2022年9月8日(木)
申命記 3:1
私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての兵は、エデレイで私たちを迎え撃つために出て来た。
【追記】
モーセとヨシュアの軍は、バシャンのオグの王国に大勝利して、その町々を聖絶します。
聖書を文字通りに解釈すべきか否かの問題になりますが、
いずれにしても、信仰的な解釈において、神様にとって意味がある大勝利であったことは確かです。
なぜなら、バシャンの王オグに対する大勝利が、主の恵みとして代々語り継がれたからです。
詩篇135:10-11【主は多くの国々を打ち、力ある王たちを殺された。~バシャンの王オグ、カナンのすべての王国を。】
詩篇136:20【バシャンの王オグを。主の恵みはとこしえまで。】
聖書を読む場合には、歴史的に読むことも大切ですが、それ以上に信仰的にどう読むかが大切であると分かります。
信仰的とは、【神様の立場・視点】としてどうであったか考えるということです。
信仰的に読めば、ここでの聖書のメッセージは、本当に聖絶すべきは偶像崇拝であることが分かります。
【付記】
聖書の『聖絶』の記述は、イスラエル民族が世界から嫌われる原因の一つでしょう。
それは、ホロコーストと同じだと言われてしまうからです。
この問題は、聖書を読む上で、多くの方が抱える問題です。
私は、聖書を歴史的に読む以上に、信仰的に(神様の視点から)読むことが大切だと考えます。
同じことは、原理講論の再臨論における日本の立場にも当てはまります。
一部の歴史事実(日本の立場)を取り上げての釈明があるのは気持ちとして分かりますが、神様にとって意味あることという視点が、それ以上に大切だと思います。
どちらの場合も、神様の視点を一切欠いた感情から出た話であるなら、それは私たちの信仰とは相容れない無益な話になりますので気を付けましょう。