ぶどう園の労働者のたとえ

【日々のレーマ】2022年8月23日(火)

マタイ20.12
言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

【追記】
有名なたとえですね。
神の王国とはどのようなところかを、イエス様がたとえています。

1日1デナリの約束で朝から働いた労働者は、約束通りに1デナリの労賃を受け取りました。
ところが、彼は、『最後に遅く来て1時間だけ働いた労働者が1デナリの労賃を受け取った』ことを知りました。

朝から働いた者にとって、労賃1デナリは約束の金額のままでも、最後に遅く来た者と比較したら損をしたような【愛の減少感】を感じました。
そこで、彼は、主人に文句をいいます。なんて不公平だと。

それに対して、主人は自分の思いをこう語ります。
【この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです】
ここでの言葉は、主従関係で交わされる言葉ではありません。
なんとなく違和感を感じませんか。

ある方と電話をしたら、神の王国のたとえなら【親子】で考えてみたらとアドバイスを受けました。
なるほど、感謝です。違和感の正体がわかりました。親の愛でした。
親の気持ちなら【この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです】に納得です。

では、朝から働いた労働者が兄の立場なら・・最後に来た弟の労賃1デナリはどう感じるでしょう。
兄として、弟がよくされたら、それはそれで喜んだかもしれません。
兄弟愛はもちろんですが、年の離れた弟に対して、兄は親代わり(親の立場)です。

『神様と同じ立場』で愛せないことが、堕落性の始まりであるなら・・
兄が親代わり(親なる神様と同じ立場)で愛せたら、愛の減少感を感じても克服したでしょう。

有名なたとえです。この解釈に限らず、様々な解釈があると思います。
皆様ならどう解釈されるでしょう。