主の言葉を聞くことの飢饉

【本日のレーマ】2022年8月11日(木)

アモス書 8.11
見よ。その日が来る。—神である主の御告げ—その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

【追記】
何が原因だったでしょうか。前節をみましょう。

4 【聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地に悩む者たちを絶やす者よ。】
5 【~麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう。】
6 【弱い者を金で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。】

当時のイスラエルの社会は、不正な詐欺商売を行う者がいました。彼らは、弱い者や貧しい者をだましていたのです。それに対して、神様は、【主の言葉を聞くことの飢饉】を送ると言われたのです。

この【主の言葉を聞くことの飢饉】は、昔の話として済ませるでしょうか。

今、テレビやインターネット・・私たちの周囲には膨大な情報があります。

そこに主の言葉はわずかです。むしろ膨大な情報は、主の言葉を覆い隠します。

そのため、現代の私たちも、主の言葉に触れる機会が少ないです。

今日の聖句にある【主の言葉を聞くことの飢饉】に似た状況にあるといえるでしょう。

この飢饉でどうなるでしょう。腹が飢えることはありません。

しかし、私たちが気付かないうちに、私たちの心は飢えることになります。

心の飢えを別のもので埋めようとします。

例えば、「これをしたら良くなる」といった人の噂を聞けば、心が飢えている私たちはすぐに影響されます。

しかし、別のもので心の飢えを埋めても、確固たる自信は得られません。心は安定しません。

聖書を読んで分かることは、本来の信仰は、主の言葉から出発しているということです。

【主の言葉を聞くことの飢饉】の現状を感じてみましょう。

そこから、主の言葉の大切さが分かります。