主人か奴隷か

【今朝のレーマ】
2022年6月27日(月)

ヨハネ福音書 8.35

奴隷はいつまでも家にいるのではありません。

しかし、息子はいつまでもいます。

【追記】

自分は奴隷と主人のどちらでしょうか。

実は奴隷であるのに、そのことに気付かないなんてあるのでしょうか。

イエス様『真理はあなたがたを自由にします。』

ユダヤ人『私は奴隷でもないのに、なぜ自由になると言うのですか。』

イエス様『罪をおこなっている者はみな、罪の奴隷です。』

罪を行えば、まず良心の呵責を感じます。

だからといって、良心が私たちを奴隷にするでしょうか。

良心は、人生の正しい方向を指す羅針盤です。

神様の声である良心に従えば正しい道を進みますから、私たちの本心は自由な状態です。奴隷ではありません。

また、罪を蕩減する(赦していただく)ことはどうでしょう。罪の赦しを得ることがつらいからといって、それが私たちを奴隷にするでしょうか。

神様への奉仕(蕩減条件)は、善人でなければできないことで、讒訴する者(悪人・しいてはサタン)の心情を自然屈服させるものです。

これによって、私たちは罪の責任を逃れて本心は自由な状態です。奴隷ではありません。

先のユダヤ人のように、罪を犯していても罪を忘れようとするものはどうでしょう。

良心のアラームも償いのチャンスも捨てていますから、罪ゆえの不安やストレスは消えません。また罪に相対する霊的背景(神ならぬもの)も襲います。

それにゆえに罪を行うものは、不安やストレスや神ならぬものの奴隷になるのです。

イエス様は奴隷はいつまでも家にいないと言われます。

それは、神様は人間を主人として創られたのであって、奴隷として創られていないからです。

家(神様が創られた天宙)にいつまでもいるのは、息子であるキリストとキリストによって新しい道を歩む私たちです。