キリストと、こころの割礼

【日々のレーマ】

ローマ人への手紙,2章29節
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

【追記】

旧約聖書の長いユダヤの歴史をみると、ユダヤ人を2つに分けて一方を選別する歴史が繰り返されています。

ある時代にユダヤ人であっても、次の時代にはユダヤ人ではなくなっているのです。

・・・

例えば、ユダヤの12部族の内、偶像崇拝によって神様から離れた北イスラエルの10部族は、歴史の表舞台から消滅します。

さらに、残されたユダ部族の中でも選別が続き、聖書の歴史は、キリストが誕生する家系へと絞られていきます。

・・・

そして、聖書は、最終的にイエス様の誕生をもって、ユダヤ歴史の最大イベントとするのです。

そう考えると、今、ユダヤ人を名乗っている人たちが、神様から見て正当なユダヤ人とは限りません。

・・・

その点、パウロは、ユダヤ人に枠を定めず、異邦人かユダヤ人かといった人種的な垣根を取り払っている点で明快です。

具体的に、パウロにとっての正当なユダヤ人とは、キリストを迎えたか否か、すなわちキリストと共に神の王国を造る、神の選民か否かです。

・・・

すなわち、パウロは、こう語っています。

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ロマ書,2章29節より)

心の割礼こそ、キリストを迎え入れたしるしでしょう。