【日々のレーマ】
マルコの福音書,8章31節
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
【追記】
イエス様は、公生涯の出発に際して、『時が満ち、神の国は近づいた』として、教えを始められています。(マルコ伝,1章15節より)
しかし、公生涯の後半以降において、イエス様は、『弟子たち』に次のように教え始めます。
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。(マルコ伝,8章31節より)
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神の国ができることと、捨てられ殺されるという十字架との間には、イエス様の立場や状況に大きな違いがあります。
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神様が最初に予定された摂理は、イエス様が最初に語られた通り、神の国の福音でした。
その通りに神の国ができていたなら、人々は、イエス様をキリストと信じて神の国に入ることで、罪を赦されたはずです。
なぜなら、イエス様には、世の罪を神様の前に取り除く権能が与えられていたからです。(ヨハネ伝,1章29節より)
そうであれば、神の国において、神様の本神殿と等しいイエス様が十字架で殺される状況は、どう考えても生じません。
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事実、イエス様ご自身が、『神の国』の福音を伝える目的で遣わされたと言われています。(ルカ伝,4章43節より)
一方、イエス様ご自身の言葉で、十字架で人々の罪を背負って死ぬとは、一度たりとも言われていません。
そのような十字架の福音は、パウロが後から悟って語った、イエス様が十字架で勝利した末に勝ち得た結果としてのパウロ神学であって、当初の神の国の福音とは違うものです。
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冒頭の聖句において、イエス様が、『人の子は多くの苦しみを受け、・・捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない』と弟子たちに教え始めたことからも、その事情を伺い知ることができます。
長老たち、祭司長たち、律法学者たちは、イエス様のことを、神の御子キリストとは認めませんでした。逆に、衣を引き裂いて、神を冒涜する者とののしったのです。
そして、それ以外のユダヤ人の多くも、イエス様の神由来の背景よりも、祭司長ら人間の地上の権威を、よく知らないがゆえ、または自己保身ゆえに信じたのでした。
すなわち、十字架がイエス様の勝利の実として、贖罪の意味を持ちえたとしても、その十字架の背景には、人間の側に失敗があったことを教えているのです。