神様を語るには、

【日々のレーマ】

エペソ人への手紙,1章4節
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

【追記】

世界の基が据えられる前を語ることは、天地創造の前の神様を語ることになります。

人は、天地創造の結果ですから、天地創造のときの神様について十分には知りません。

ましてや、天地創造の前から、あってある神様です。

その神様を語るのは、世界の基が据えられる前から存在した御方、すなわちキリストをおいて他にはいません。

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それなのに、神様と人が交流できる時代が来たと言うなら、どうでしょう。

そんな主張は、人を一種の束縛から解き放つようで、人々の気持ちを惹きつけます。

しかし、キリストによらない自由を教える者は、いずれキリストを不用にする偽キリストです。

その結末がどうなったか、注意深く見ましょう。

人と人が、神様について意見をちがえて争う、神なき結末をみるでしょう。

それは、お前に世界を支配させるといった、滅びにいたるサタンの誘惑だったからです。

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弟子は師以上にならないというイエス様の言葉は、私たちとキリストとの関係を言っています。

人は、キリストの言葉と行動を通して、はじめて神様を知るのです。

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冒頭の聖句にもどりましょう。

ここで、使徒パウロが語る『この方』は、世界の基が据えられる前から存在したキリストを指します。

パウロは、このようにキリストを確立した上で、キリストから教えられた神様の真理を語っているのです。

それは、キリストを通すがゆえに、人と人を争わせる結末にはなりません。

このように自分を通さず、キリストを通してこそ、人は真理を知り、本心の自由を得るのです。