【日々のレーマ】
列王記第二,14章4節
すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。
【追記】
南ユダ王国の王アマツヤは、主の目にかなう王でしたが、それは父祖の王ダビデのようにではなく、あくまでも先代の王の慣習に従うものでした。
すなわち、アマツヤは、高き所を取り除くことをしませんでした。
ここでの『高き所』とは、エルサレム神殿とは別に存在した、古くからある地方の祭壇のことです。
王国の民は、エルサレム神殿がありながら、なおも地方の高き所に登って、いけにえを捧げていたのです。
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同じ神様へのいけにえであるなら、エルサレム神殿でなくとも、高き所でもよいようです。
しかし、旧約聖書では、このような高き所に捧げる信仰を、一貫して低く評価するのです。
それは、なぜでしょう。
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エルサレム神殿の由来は、モーセの契約の箱であり、それはいずれ来られるキリストをあらわす存在でした。
神様の右から来られるキリストが唯一であるように、キリストをあらわす神殿も一つなのです。
それゆえに、旧約聖書は、エルサレム神殿とは別個の『高き所』を否定します。
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それは、すなわちイエス様の内なるキリストの唯一性を明らかにしているのです。