【日々のレーマ】
ネヘミヤ記,13章30節
私は異教的なもの一切から彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めにしたがって職務に就かせ、
【追記】
バビロン捕囚の民が、エルサレムへ帰還する過程のお話です。
ネヘミヤは、エルサレムの焼き壊された城壁を再建する人物です。
ペルシャ王やエルサレムの帰還民たちの力を借りて、城壁建設に尽力します。
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このネヘミヤの始まりの行動や動機は明快で、まわりの期待も高いです。
しかし、結末に近づくに従って、ネヘミヤは周囲から浮き上がります。
結果として、エルサレムの人々の気持ちはバラバラで、ネヘミヤの信仰とは溝が深まるばかりです。
ネヘミヤ記の結末は、そんなネヘミヤの嘆きで締めくくられます。
ネヘミヤ記の読者にとっては、始まりの期待が高いだけに、バラバラに終わるバッドエンドに納得できないかもしれません。
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想い出すのは、古いイタリア映画、例えば「自転車泥棒」や「鉄道員」を見終わったときの印象です。
これらの映画は、ネオレアリズモ(イタリア・ネオリアリズム)と呼ばれます。
人間のありさまを現実社会のままに描き、予定調和で終わらず、見終わったあとに余韻が残ります。
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なにより、聖書こそ、リアリズムの記録です。
人々が好まない記録であろうと、遠慮したり、隠すことがありません。
それゆえ、その内容には、おおよそ虚構がありません。だからこそ信頼できる記録です。
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ここで、鳥瞰的な視点に立ってみましょう。
聖書には、キリストに対する希望と共に、キリスト不在の人間の現実が、互いに織りなすように登場します。
ネヘミヤ記やエズラ記は、その内のキリスト不在の現実が、書かれています。
エレミヤは、主への深い信仰を持ちながらも、キリスト不在のまま、一人で頑張ります。そのために周囲との溝が深くなります。
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このような視点に立てば、ネヘミヤ記がなぜ嘆きで終わったのか、その原因が見えてきます。
人間は、以下に信仰深くとも、天地創造の神の聖霊を宿す御方、キリストには代われません。
キリストという特別な御方を求める、方向性の信仰が大切だと分かります。