【日々のレーマ】
民数記,11章5節
エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
【追記】
イスラエルの民は、エジプトの地において400年の間、奴隷の身分でした。
日干しレンガを作るなどの使役が、彼らの義務でした。
このような使役を行う以上、奴隷にも生活の保障は与えられていたでしょう。
食べたい物を食べることは、できたでしょう。
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しかし、彼らには、エジプトを出るなどの行動の自由はありません。
そもそも、奴隷である彼らには、生殺与奪の権限が自分にないのです。
いたるところに偶像が立つエジプトにあっては、アブラハム伝来の信仰の自由を保つことも難しかったでしょう。
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そうなると、神様から与えられた良心はあっても、その良心の声に十分に従えなくなります。
人として、生きるだけの生活は保障されても、奴隷としての心は不自由です。
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そんなイスラエルの民は、モーセに導かれて、エジプトを出発します。
彼らは、やっと自由になれると、期待したことでしょう。
しかし、エジプトを出た民を待ち構えていたのは、数十年に及ぶ荒野の生活でした。
荒野の生活では、エジプトのときと違って、食べたい物を、食べたい時に食べることができません。
そうなると、エジプトから自分たちを連れ出したモーセが、民には恨めしく、不平不満の言葉が口から溢れます。
このように不平不満に囚われれば、人はそこから前に進むことができなくなります。
うらみの奴隷になります。
彼らは、エジプトを出た後も、そんな奴隷の立場から抜け出すことができません。
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一方、モーセは、先祖の地カナンに帰ることを、神様と約束していました。
そのため、目の前に荒野の旅路が続き、民の不平不満がやまなくとも、モーセは良心の声に従うことができます。
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ここに、モーセの信仰と、民の信仰の違いが現れます。
モーセは、神様を見ていたので、奴隷にはなりませんでした。
民は、恐れるばかりで、神様を見なかったために、奴隷のままでした。