【日々のレーマ】
コリント人への手紙第一,9章9節より
モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
【追記】
世俗において、人々は、自由な生活を望みます。
その一方で、人々は、聖職者に対して、慎ましく清貧な生活を期待します。
そのため、聖職者は、神に仕える本来の自由のほかに、世俗からの期待に気を使います。
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パウロは、この聖職者の気の使いようを、次の聖句で【奴隷】と表現しています。
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。(コリント書,9章19節より)
パウロのように、聖職者である本人が伝道のため、目の前の不自由を受け入れることも、また自由でしょう。
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しかし、聖職者に対する過分な期待が、神に仕えるという聖職者の本分を妨げる場合もあります。
そのことを、パウロは、冒頭の聖句において、脱穀している牛の口籠に例えています。
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牛の口籠とは、牛の口にかぶせるカゴのことです。
口籠をつけることで、牛は、脱穀中の穀物を口にできなくなります。
農家は、穀物の収穫量をわずかでも減らさないため、牛に口籠をつけます。
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しかし、モーセの律法では、「脱穀中の牛に口籠をつけるな」となっています。
神様の考えはこうでしょう。
脱穀という本分を果たす牛に、口籠を着けず、穀物の配分という希望を与えれば、牛はさらに本分に励むだろうということです。
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同様に、神に仕える本分を果たす聖職者に対して、過分な期待を強いて、本分のほかに注文をつけることは、神様の考えに沿わない恐れがあります。
もしも、聖職者が本分を果たしているなら、その本分以外の些細な点について、気にしないことが好ましいでしょう。