キリスト教弁証論における人の役割

【日々のレーマ】

ペテロの手紙第一、3章15節~16節より
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

【追記】

冒頭の聖句のように、キリストの希望について説明を求める相手には、言葉で説明してあげることになります。

この言葉は、相手と分かり合うための言葉です。

そのため、キリスト者は、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心を持って話すことになります。

このような弁明の学問を、キリスト教弁証論といいます。

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ところで、弁明する相手が、無神論者という機会もあるでしょう。

その場合も、神様とキリストの価値を伝えることが主です。対決は従です。

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仮に、無神論者を、完璧な論理でねじ伏せようとすれば、どうなるでしょう。

相手の反論が予想される、神様やキリストを遠回りに避けて、話さざるをえません。

それでは、神様とキリストの価値を、相手に十分に伝えることができません。

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相手の反論が予想されても、神様とキリストの価値を丁寧に伝えます。

それがうまくいってできることは、相手をキリストの前に連れてくることです。

そんなことで、相手がキリスト者に転向するでしょうか。

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例をあげましょう。

『神か大工か』という本の著者であるジョシュ・マクドウェルさんは、キリスト教弁証論の弁証家として有名です。

このジョシュさんは、もともとは、キリスト教に反抗する青年でした。

その彼を打ち負かしてキリスト者に転向させたのは、誰でしょう。

どこかのキリスト教弁証家による完璧な論理ではありません。

著者を変えたのは、キリスト・イエス様でした。

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このように、キリスト教弁証論において、相手を打ち負かすのは、私たちの役割ではありません。

相手を本当の意味で変えるとすれば、その御方は、キリストをおいて他にいません。