【日々のレーマ】
マルコの福音書、12章12節より
彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。
【追記】
祭司長たちは、エルサレム神殿の中で群衆に語るイエス様に対し、なんの権威があって語るのかと問います。
そこで、イエス様は、ぶどう園の悪い農夫たちのたとえを、話されたのでした。
それは、ぶどう園の管理を任された農夫たちが、主人の愛する息子を殺して、ぶどう園の収穫を奪うという話です。
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イエス様がこのたとえを語られたとき、イエス様はエルサレム神殿の中にあって、その視線の先には、祭司長が立っていました。
したがって、このたとえ話は、その場の環境を指していると、考えても自然です。
さて、そう考えると、どうなるでしょうか。
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例え話の主人は、いつものごとく、神様になります。
神様が創ったぶどう園とは、広くは、天地創造された世界の全てを指し、狭くは、イエス様が今立たれているエルサレム神殿を指します。
すると、ぶどう園の管理を任された農夫たちは、広くはこの世の人すべてであり、狭くは、エルサレム神殿の管理者としての祭司長になります。
今、話しているイエス様の、その視線の先に立つ祭司長が、悪い農夫だとイエス様は指摘したことになります。
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そうすると、たとえ話がいわんとするところは、こうなります。
神殿の管理を神様から任された悪い祭司長が、主が愛する一人子キリストを殺して、神殿の収穫である人々の信仰を奪うとなるのです。
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しかし、祭司長は、イエス様の言われたことが分かっても、何もできませんでした。
高位の名目と肩書を持つ祭司長は、それを捨てることができませんでした。
そのために、冒頭の言葉になります。
彼らは、このたとえ話が、自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。(マルコ伝、12章12節より)
祭司長が、イエス様が自分を指して言ったと分かったなら、どうしたらよかったでしょう。
祭司長が、イエス様の前にすなおになってこそ、神様に認められたはずでした。
同じことは、再臨の時代にも起こると考えることが、自然でしょう。