【日々のレーマ】
マルコの福音書11章33節より
するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」
【追記】
マルコ伝11章によれば、イエス様は、エルサレムの主の宮、すなわちエルサレム神殿の中を歩いていました。
そこで、イエス様は、群衆に対して、み言葉を語られていたのでしょう。
そこに神殿の祭司長たちが来て、イエス様に「なんの権威があって語っているのか」と問いただしたのです。
神殿の中で高位の肩書をもつ祭司長をさしおいて、群衆に語るお前の権威は何かというわけです。
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そこで、イエス様は、洗礼者ヨハネのことを引き合いに出します。
洗礼者ヨハネの権威は、天から来たのか、人からきたのかという問題でした。
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洗礼者ヨハネは、祭司長の家柄に生まれながら、祭司長の職にはつきませんでした。
彼は、荒野にあって長年の修行を行い、青空の元で群衆に洗礼を与えていたのです。
つまり、洗礼者ヨハネの権威は、祭司長といった、人から与えられた名目や肩書きによるものではありませんでした。
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その洗礼者ヨハネの権威を、一番先に理解できるのは、祭司長でした。
祭司長とは、その時代にあって高い宗教的素養を持つ専門職だったからです。
しかし、祭司長は、それができませんでした。
もしも洗礼者ヨハネの権威を認めると、祭司長は自分の肩書をあたかも損ねるように思えたからでしょう。
しかし、祭司長が先礼者ヨハネを認めてこそ、次は祭司長の権威を神様がお認めになるのです。
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そして、イエス様は、冒頭のように答えられました。
わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。(マルコ伝、11章33節より)
イエス様は、ご自分の権威については、彼らの本心に判断を任せたのです。
イエス様のキリストとしての権威を認めることに対して、そもそも神様は命令も干渉もされません。
自分で堕落して神様から離れた人間です。人間には、自分の本心でキリストを悟って神様に戻る責任が託されているのです。