【日々のレーマ】
マタイの福音書、26章56節より
しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。
そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。
【追記】
旧約聖書の預言者たちは、イエス様についてのキリスト預言を告げています。
そのキリスト預言には、2つの面があります。
一方のキリスト預言は、王の王として栄光の道を行くキリストの姿を告げます。
もう一方のキリスト預言は、犠牲の道を行くキリストの姿を告げます。
これら2つのキリスト預言は、正反対です。そのため、そもそも一気に成就するものではありません。
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すると、何らかの不確定な要因ゆえに、二通りのキリスト預言が用意されたと思われます。
では、不確定な要因とは、何だったでしょう。
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神様とキリストにおかれては、神の王国という福音実現は確定なので、その方向において不確定な要因は存在しません。
すると、キリストを迎える側、すなわち、人間の側に、自ら考え行動する自由意志(すなわち責任)として、不確定な要因が存在したことになります。
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本日は、理屈っぽい話ですが、しかしキリスト教の予定論を考える上で、大切です。
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要するに、
人間一人ひとりが、神様から与えられた自由意志(責任)をまっとうすれば、王の王として栄光の道を行くキリスト預言が成就したことでしょう。
その逆に、人間一人ひとりが、神様から与えられた自由意志(責任)を失敗すれば、犠牲の道を行くキリスト預言が成就することになります。
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そのことを踏まえて、冒頭の聖句をもう一度読みましょう。
こうなります。
しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。
そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。(マタイ、26章56節より)
このとき、神様から自由意志(責任)を与えられていたのは、イエス様を慕う弟子たちでした。
その弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げて、失敗しました。
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これら人間の失敗を受けて、イエス様は犠牲の道を行くことになります。
それこそ、神様が、そうならないために警告していたはずのキリスト預言が成就してしまったということです。
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これをもって、イエス様が失敗したといえば、明らかに言葉足らずの間違いです。
失敗したのは、あくまでも人間たちの側です。
イエス様は、その失敗した人間たちを一切責めることなく、むしろその罪まで背負われて犠牲の道を行かれました。そのことで、サタンと神様の両方が見守る中で、でき得る限りの完全といえる勝利をされたのです。