キリスト者としての受難

【日々のレーマ】

ペテロの手紙第一4章15節~16節
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。

【追記】

第一ペテロ書の4章後半は、神の家からさばきが始まるという話です。

キリスト教の受難の歴史は、主キリストの受難に始まります。

そして、多くの使徒たちが、福音を述べ伝える中で捕らえられては刑死を繰り返す歴史へとつながります。

ペテロによる【神の家からさばきが始まる】という言葉は、いずれペテロが逆さ十字架につくことを知る私たちにとって、けして軽くない言葉です。

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一方、ペテロは、何でも受難に結びつける者たちへの警告も忘れません。

冒頭の聖句は、こう警告しています。

あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。(第一ペテロ書、4章15節より)

これらの苦しみは、おごりたかぶりによって自ら招き寄せる苦しみです。

典型的な例としては、イスカリオテのユダが、神の家にありながら、しゅキリストに反逆して死んだことが想起されます。

このような苦しみは、背後のサタンに心情を操作されたものであって、ペテロがいう神の家に始まる受難とはいえません。

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神の家にいても、自犯罪で苦しむ者もいれば、キリスト者として苦しむ者も、どちらもいます。

使徒ペテロの警告に耳を向け、自犯罪にいたるおごりたかぶりに気をつけながら、キリスト者としての受難を神にあがめることのできる者になりましょう。