なぜなら、喜び帰ったからである。

【本日のレーマ】

使徒の働き8章39節
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。

【追記】

使徒の働きは、《主の霊がピリポを連れ去られた》、と記述します。

ここだけを読むと、伝道者ピリポは、肉体を持ったまま、天に引き上げられたようです。

このあとで、ピリポは、アゾトの町で福音を宣べ伝えたとあります。

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聖書のすべては、神の聖霊を受けて書かれた、神様の目からみた事実そのままです。

ただし、聖書は、ビデオカメラでその瞬間を撮影したような、見たままの映像ではありません。

聖書は、言語による文章表現です。

聖書が、事実を文章表現する以上、文章をわかりやすく伝えるための装飾を少なからず含みます。

その装飾文章に注目して、漫画のようなイメージ化をしてしまうと、人間が超常的に進化するたぐいのトンデモ似非進化論になってしまいます。

聖書は、安易に誇張せずに、神様の目からみた事実を平らに読む気持ちが大切です。

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ここで、冒頭の聖句を振り返ってみましょう。

その場にいた宦官は、ピリポから洗礼を受けて、水から上がった直後です。

使徒の働きは、《宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った》、と記述します。

ピリポが目の前から消えれば、宦官の行動は、驚く、探す、心配する、となるのが自然です。

読み飛ばしてしまいがちですが、《喜びながら帰って行った》、という宦官の行動は、実は奇妙なのです。

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この「が、」という接続詞の原語である、古代ギリシャ語「γαρ(ガル)」は、理由(なぜなら~であるから)を意味します。

その原語の意味を考慮すると、先の宦官の行動は、こう読めます。

宦官はもはやピリポを見ることはなかった。なぜなら、喜びながら帰ったからである。

宦官は、ピリポと普通に分かれて喜んで帰った、とも読めます。

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そう読むと、直前の文章の解釈も少し変わります。

《主の霊がピリポを連れ去られた》、とは、ピリポが忽然と消えたわけではないでしょう。

主の霊がピリポに臨んで先を急がせた。そのため、宦官との挨拶もそこそこに普通に分かれた、とも読めます。

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このように、聖書は、安易に誇張する必要はなく、神様の目からみた事実を平らに読む姿勢が大切となります。