宗教の権威は、人によらず神様から

【本日のリマ】

マルコの福音書1章10節
イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

【追記】

イエス様が、洗礼ヨハネから水でバプテスマ(洗礼)を受ける場面です。

水の中から上がると、たちまちに聖霊が鳩のようにイエス様に下ってきます。

マルコ伝では、《ご覧になった》とあるので、聖霊を見たのは、イエス様ご自身になります。

イエス様にとって、これから福音を伝え始めるにあたって、キリストの立場を自覚する出来事だったかもしれません。

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一方、ヨハネ伝には、同じ場面について、こうあります。

 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。(ヨハネ1章32節)

ここでは、洗礼ヨハネが、イエス様の上にとどまる聖霊を見ています。

洗礼ヨハネにとっても、イエス様が神の子キリストであると悟る出来事でした。

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洗礼ヨハネは、祭司ザカリヤの息子として、正統派ユダヤ教としての伝統的な背景を持っていました。

あのパリサイ派が、洗礼ヨハネに使者を立てるほど、洗礼ヨハネの言葉にはユダヤ教社会に対するちからがありました。(ヨハネ1章24節より)

このような二人の出会いは、キリストであるイエス様と、道をなおくするエリヤである洗礼ヨハネとして、神様が周到に準備した千載一遇の一日だったでしょう。

この神様の意思は、マタイ3章14節から15節に記録される二人の会話から感じることができます。

洗礼ヨハネ:「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」

イエス様:「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」

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洗礼ヨハネは、イエス様の権威に対して、あたかも弟子の立場で下から発言しています。

この立場のまま、洗礼ヨハネがイエス様の弟子になっていれば、どうだったでしょう。

洗礼ヨハネに一目を置くパリサイ派や祭司たちが、イエス様の障害になることは、少なかったはずです。

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しかし、残念なことには、この出来事の後、イエス様と洗礼ヨハネが行動を共にした記録がありません。

そのため、イエス様は、後に洗礼ヨハネのことをこう言います。

女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。(マタイ11章11節より)

イエス様の弟子となるべく生まれた立場で、洗礼ヨハネより上の人は地上にいませんでした。しかし、イエス様の弟子にならなかったために、天国では、洗礼ヨハネは何の権威も持ちません。

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イエス様の弟子になることは、ユダヤ教社会において高い権威を持つ洗礼ヨハネにとって、人間的に難しいことだったと同情します。

しかし、そのユダヤ教社会の権威は、生まれ育ちで人間が決めた肩書きに過ぎませんでした。

天国での権威は、神様が決められるものです。

宗教の権威が肩書きによるという、地上の宗教社会においては、いつの時代も起こりうる問題です。

神様の前に立つ場合には、宗教社会での肩書きによらずに行動する責任があるということでしょう。