【本日のリマ】
ヨハネの福音書2章10節
みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。
【追記】
冒頭の聖句は、ガリラヤでの婚礼の場で、イエス様のぶどう酒を飲んだ世話役の感想です。
世話役は、イエス様のことを知りません。そのため、一人の酒飲みの感想になります。
しかし、ヨハネがその感想を聖書に記録したということは、そこに神様の深い意志があるかもしれません。
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最初のぶどう酒が、最初の人アダムを指すのなら、それは神様が創造の御業をもって造られた神ご自身の似姿になります。
神の似姿としてのアダムは、神様が造られたものの中で、最高の存在でした。
しかし、そのアダムは、堕落によってサタンの支配を受けてしまいます。
ぶどう酒に例えるなら、最高のぶどう酒に、偽物が混じったわけです。
そのアダム以降、地上の人々は、一人残さず、混ぜもののような存在になるしかありませんでした。
混ぜものゆえの葛藤があっても、神様が造られた人間本来の価値を知りえない状態だったわけです。
まさに、地上の人すべてが、酔いが回ったような混沌とした世界でした。
混ぜものなのに、それを善いものと喜んでいたわけです。
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そこに、今まで取っておいた、ぶどう酒が新しく出されます。
それは、きよめの水がめから汲まれたぶどう酒でした。(ヨハネ2章6節~8節を参照)
そのぶどう酒が、イエス様を象徴していると考えたら、どうでしょう。
《今まで取っておいた》ということは、イエス様は、アダムのときからいらっしゃった方ということになります。
また、《きよめの水がめから汲まれた》ということは、イエス様は、きよい立場であって、アダム由来の原罪を持たない方となります。
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冒頭の聖句は、酒飲みの世話役の感想ではあります。
しかし、キリストであるイエス様の価値を示したとするなら、神様が喜ばれたと読むことができそうです。