【本日のリマ】
ローマ人への手紙9章31節~32節
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。
【追記】
かつてのパウロは、律法を熱心に守るパリサイ派でした。
冒頭の聖句は、そのパウロ自身の経験によるものです。
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パリサイ派は、神様が与えた律法を追い求めることで、神の義を社会に実現しようとしました。
そのため、パリサイ派の人々は、この世において、律法より上を認めません。
もし認めれば、律法の根本である神の義が、揺らぐからです。
律法より上を認めることは、律法を与えた神様を否定するに等しいことだったのです。
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ところが、イエス様は、律法を成就するために来られたキリストですから、彼らの律法よりも上の存在だったのです。
そこで、パリサイ派の人々は混乱しました。
律法より上はないと思っていたのに、イエス様が、律法より上の存在として、み言葉を語られたからです。
結果として、イエス様を律法より上と認めることはできず、目のかたきにするしかありませんでした。
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神様は、そんなことのために、律法を与えたのではありません。
律法は、人を悪から遠ざけ、キリストに導くための養育係だったのです。(ガラテヤ3章24節を参照)
そのことを知らずに、律法のみを追い求めた結果、パリサイ派の人々の態度は、多くの人々がキリストを受け入れるための障害になってしまったのです。
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パリサイ派のことを、愚か者と笑うことはできません。
それは、いつの世も、信仰者が教条的な正典信者になるほど、その正典を成就するために来られるキリストを、正典より上として認めることができなくなるからです。