敬虔な信仰のために

【本日のリマ】

テモテへの手紙第一4章10節
私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。

【追記】

テモテへの手紙第一4章7節~10節は、《敬虔な信仰》をわが身につけることを説いています。

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そのための最初のアドバイスは、こうです。

俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。(テモテ一4章7節)

現代では、証拠のかけらもない作り話がネット上に多くあります。

悪質な作り話は、得体のしれない恐怖を駆り立て、善意の人々を踊らせます。

そんな騒ぎが嘘になれば、真実の話まで、陰謀論にされてしまいます。

作り話に踊ってしまうのは、《心の沸点》が低くく、《軽挙妄動》に陥るためです。

この《軽挙妄動》と反対にあるのが、地に足がついた《敬虔な信仰》です。

そのため、《敬虔な信仰》を保つには、俗悪で愚かな作り話は避けた方が善いというわけです。

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続くアドバイスは、こうです。

むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。(テモテ一4章7節)

《敬虔な信仰》は、一見すれば大人しく、激しい鍛錬とは無関係に見えます。

しかし、《敬虔な信仰》には、肉体の鍛錬と共に、それ以上の心の鍛錬が必要です。

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ここで、冒頭の聖句が登場します。

私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。(テモテ一4章10節)

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この《労苦し苦闘する》の中の《労苦》とは、生きるための日々の労働のことです。

もう一つの《苦闘》は、《苦しみながら闘う》ことではありません。

原語本来の《苦闘》の意味は、《ののしられても耐える》に近いです。

《敬虔な信仰》において、考えが違うという理由で、誰かと闘わないでください。

《敬虔な信仰》とは、生ける神キリストに望みを置くことで、《ののしられても耐える》という強さのことだからです。