【本日のリマ】
マタイの福音書12章43節
汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、
【追記】
汚れた霊は、神様を離れた霊です。その霊は死んで人から出ると、水のない地をさまよいます。
水のない地とは、キリストと出会うことのない荒野です。キリストとは、水と血と御霊によって来られた方だからです。(ヨハネ第一5:6参照)
荒野をさまよう悪霊は、キリストに出会わないため、死んでも神様の元に帰る道がわかりません。
そこで、帰る道を知らない悪霊は、こういいます。
『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。(マタイ12:44)
自分の家とは、堕落の末裔の体です。生きている人の体は、きちんと片付けてあっても、主人のいない空っぽの状態です。
キリストの体が、最初のアダムに代わって神の宮となる本神殿であるなら、本然の人の体は、神の宮としての分神殿になります。
しかし堕落の末裔の体は、いくら片付けても、主人のいない空っぽの状態なのです。
すると、悪霊は、こう働きます。
そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。(マタイ12:45)
悪霊にも、神様から授かった良心の声が聞こえるはずです。しかし、神様から離れた今、悪霊は、その良心の声に耐えられません。良心の呵責です。
そこで、悪霊は徒党を組むことで、悪霊同士で良心の声から耳を閉ざすのです。そのために、その生きている人の最後は始めより良くならないのです。
そのため、人は、この地上に生きている短い間にこそ、キリストに出会うべきなのです。