【日々のリマ】2023年2月14日(火)
ゼカリヤ書8:4
再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。
【追記】
ゼカリヤ書8章で、神様は、バビロン捕囚から解放された選びの民に対し、なつかしいエルサレムが回復することを預言(予定)します。
わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる。(ゼカリヤ書8:2)
シオンとは、エルサレムにあって神様の足台となる丘のことです。
最初は、ダビデ王がモーセの幕屋(キリストの代わり)をおいたダビデの丘を指しました。
次にソロモン王がモリア山に神殿(キリストの代わり)を建てると、そこがシオンになりました。
つまり、シオンとは、どこかの地名ではなく、主キリストが今立たれるその場所を指します。
冒頭の聖句は、回復した広場の様子です。老男老女が座り、みな長寿で手に杖を持ちます。平安な風景です。
さらに、そこはベビーラッシュでもあります。
都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。(ゼカリヤ書8:5)
若い家族にとっても、希望に満ちた風景です。
一方、現実はそれとはちがいます。
帰還した民の目の前に広がっているのは、城壁が崩れて廃墟になったエルサレムの現実です。
ここに、現実に対する信仰の姿勢が問われます。
今見えるものよりも、見えない主の言葉を信じ、主と共に善き方向にすすむ姿勢です。
神様が後ろに立って力を発揮されることを約束されたことがスタートです。
そのスタートから、廃墟のエルサレムを回復するのは、お一人お一人の自由意志(責任)の底力になります。
神様は、人々が善き方向に進むことをこう励まされます。
もし、これがその日に、この民の残りの者の目には不思議に見えても、わたしの目には、不思議に見えるだろうか。(ゼカリヤ書8:6)