イエス様は「いや、そうだ」と言われた

【日々のレーマ】2022年8月29日(月)

マタイの福音書26:25
すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。

【追記】
この有名な場面では、イエス様の思いをどこまで感じるかに尽きます。
その感じた点についての私見になります。
私の考えなので間違いもあるでしょうから、皆さまでご判断いただければと思います。

まず、イスカリオテのユダについて、原理講論にはこうあります。

洗礼ヨハネやイスカリオテのユダが不信に陥ったとき、神はそれを知らなかったはずはなく、またそれを止め得ないはずもなかったのであるが、彼らの信仰に対しては一切干渉されず、その結果だけを見て主管されたのである。

つまり、ユダは、自分で決めないといけなかったのです。
ユダには、およそ次の選択肢があったことになります。

(1) ユダが、そのままサタンの侵入を許して、イエス様を裏切る。

(2) ユダが、侵入したサタンと訣別し、イエス様を守る。(「予定論」によれば可能性ゼロではない)

神様は、ユダの不信を知り、それを止め得る立場にあっても、ユダの信仰を見守るというわけです。
「予定論」における『人間に対する神様の予定』ですね。

これを、洗礼ヨハネのときで考えてみましょう。
洗礼ヨハネは、イエス様に伝令を送り、『イエス様はメシアですか』と質問しました。
イエス様は、そのヨハネの質問に答えず、『自分の目で現実を見なさい』と伝えます。
イエス様は、ご自分がメシアであると返答せず、ヨハネの信仰に干渉しない立場(神様の立場)を通しました。

ところが、イスカリオテのユダのときは違います。
イエス様は、ユダの質問に『いや、そうだ』と返答しました。
つまり、イエス様は、『ユダが裏切る』と答えたのです。
ユダの信仰に任せずに、イエス様が決めてしまったことになります。

そのことで、裏切り者ユダの責任は軽減されます。
なぜなら、イエス様が、決めた分だけユダの責任を代わりに負うからです。
なぜ、イエス様はそうされたのでしょう。

ユダがイエス様を裏切れば、人々は『ユダは生まれて来ない方がよかった』と言うでしょう。
そんな裏切り者ユダであっても、『いや、そうだ』でイエス様が責任を代われば、再びイエス様に立ち返る道が残ります。

もしもですが。
ユダが、イエス様の思いに感謝して、自分の責任でイエス様に立ち返れば、どうでしょう。
すべては、神様の御心(予定論)に沿います。
このユダの信仰にサタンは【自然屈服】するしかなく、サタンはユダから離れます。

イエス様にとって、深い悲痛の中で示された、悲痛よりも深い愛であったかもしれません。

以上です。あとは皆さまの自由なご判断にお任せです。