【本日のレーマ】2022年7月30日(土)
ガラテヤ人への手紙 2.21
私は神の恵みを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
【追記】
パウロの書いた手紙です。
原始キリスト教会には、ユダヤ人と異邦人がいました。
ユダヤ人は、選民として律法を与えられて、守ってきた人々でした。
一方、異邦人は、イエスキリストの教えを受けて新しく集まってきた人々でした。
異邦人は、ユダヤ人の印である割礼を受けていません。そのことを理由に、異邦人に対して根強い偏見をもつ人々がいました。その人々は割礼派と呼ばれました。
以前は異邦人と親しく食事をしていたユダヤ人(実はペテロ)がいました。しかし、そんなユダヤ人たちも、割礼派のことを恐れて、だんだんと異邦人に冷たくなりました。そして、異邦人は孤立しました。
パウロは、ユダヤ人の中でも律法を人一倍強く守ってきた人です。
そのユダヤ人中のユダヤ人であるパウロが、この兄弟姉妹の偏見と冷たい態度に抗議します。
そして、このように言いました。
【私は神の恵みを無にはしません。】
それなのになぜなのかです。神様の恵みを受けたはずの私たちが、その恵みを無にするような態度を取るのか。
【もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」】
割礼派の人々が今でも依り頼む律法(割礼)によって、私たちが義になり救われるのであれば、キリストは地上で苦難も十字架も受ける必要はなかったでしょう。
割礼派は、律法ではなく、割礼した自分自身を特別視して義としているのです。そして、割礼派を恐れて異邦人に冷淡であった人々は、イエス様の愛を忘れた人々だったのです。
自分の考え(律法)を義にしてはいけません。キリストこそが義なのです。