主の名によって受ける苦難

【本日のレーマ】2022年7月31日(日)

使徒 2.20
「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。

【追記】
ペテロたちは捕らえられ、獄舎に入れられていました。

夜、主の使いは、牢の戸を開き、ペテロたちを解放します。

ペテロたちは、夜明けごろ宮に入って教え始めます。

そこで、ペテロたちは、再び捕らえられ、議会の中に立たされます。

大祭司は、『イエスの名で教えてはいけないと言ったのになぜ教えたか』とペテロたちに問いただします。

ペテロをはじめ使徒たちは、このように答えます。

『人に従うより、神に従うべきです。』

『私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。』

『そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。』

『私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。』

大祭司たちは、これを聞いて怒り狂います。そして、使徒たちを殺そうと計ります。

そこに、ガマリエルという律法学者が立ち上がります。

ガマリエルは、神から出ないものは滅びると説きます。

そのことには実例がありました。先頃、反乱を起こした者たちがいましたが、彼らは自ら滅んでいるのでした。

さらに、ガマリエルは、こう続けます。

2.39 【しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。】

そこで、ペテロたちは、釈放されることになります。

ペテロたち使徒は、【御名のためにはずかしめられるに値する者とされた】ことを喜びます。

御名をはずかしめなかったことを喜んだのではありません。

イエス様の名に対して受ける辱めを、イエス様の代わりに受けることができる者となった・・そのことを、喜んだのです。

私たちも、信仰の上で辱めを受けることがあるかもしれません。

その辱めを自分のものだと思えば、それで終わるだけです。

しかし、主の名に対して受ける辱めを、主の代わりに受けたとすれば、個人の苦難で終わりません。

主が受けるはずの苦難を代わりに受けたとすることで、キリストが相手に与えたであろう、赦しと執りなしを行うことができます。そのようにすれば、苦難を救いの条件として天に積むことになります。