人はキリストをどう迎えるか

【日々のレーマ】

民数記,21章8節
すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

【追記】

民は、荒野にあって神様の恵みに対して不平不満をいい、神様とモーセに逆らいます。

そこで、主なる神は、民の中に燃える蛇を遣わします。

燃える蛇とは、火のような痛みの毒を持つ蛇のことです。

民の多くは、この蛇に噛まれて死にます。

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そこで、民は、毒蛇から逃れられないことを悟り、悔い改めます。

すると、神様は、青銅の蛇を旗ざおの上に掛けるように、モーセに告げます。

神様は、毒蛇に噛まれた人が、この青銅の蛇を仰ぎ見れば生きると告げます。

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最初に登場する毒蛇は、エバを堕落させた古い蛇、すなわちサタンを象徴します。

毒蛇が噛みついて人々を殺したのと同様に、サタンも、罪の血という毒によって、アダムとエバを霊的に死に追いやったのです。

この罪の血は、人間始祖であるアダムを堕落させただけにとどまりません。

その子孫である人間も、堕落の血統として原罪を負い、サタンに支配されて神様に背くようになります。

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一方、毒蛇から逃れられないことを悟って後悔した人々は、神様が与えた青銅の蛇を仰ぎ見て救われます。

この青銅の蛇は、サタンによって堕落の罪に苦しむ人々を救う、キリスト・イエス様を象徴します。

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ヨハネ福音書の3章において、イエス様はこう言われます。

だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ福音書、3章13節から15節より)

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イエス様が言われた「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」とは、どういう意味でしょう。

イエス様は、すぐ前の13節において、「今まで天に上がった者はいなかった。しかし、天から下って来たキリストは、初めて天に上がる」旨の話しをされています。

したがって、人々は、天高く上げられたキリストを仰ぎ見れば、原罪によるサタンの支配から救われるという意味です。

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ここで、イエス様は、ご自分が、旗ざおが象徴する十字架に上げられることを、必ずしも告げられたわけではありません。

青銅の蛇の故事は、神の王国を立てることで、イエス様が地上の王として天高く上げられるというのが、本来の意味です。

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しかし、神様は、人間に自由と責任を与えるため、人間の最終判断に干渉されません。

そのため、神様の預言には、人間が責任を果たした場合と、失敗した場合とに備えて、二重の意味が予備的に含まれます。

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もし、人間が失敗してイエス様を拒んだなら、サタンはその人間を奪います。

そのとき、イエス様は人類を生かすために、やむを得ず、天の蛇として、ご自分の意志で十字架に上がることになります。

その上で、キリストを迎えなかったことを悔い改めた人は、十字架の上のイエス様を仰ぎ見て救われるという、予備の預言が実現することになります。

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このように、モーセが青銅の蛇を上げた故事は、キリストを迎える人間の選択によって、2つの未来があることを示していたのです。

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それゆえに、イエス様は、ヨハネ福音書の6章において、こう言われました。

「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。(ヨハネ福音書,6章28節より)

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ここに、人間はキリストをどう迎えるかが、イエス様によって問われているのです。