人間の命令を「教え」とすることはむなしい

【日々のレーマ】

マルコの福音書,7章7節
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。

【追記】

ユダヤの昔からの言い伝え(口伝)では、手をよく洗ってから食事をする決まりがありました。

また、市場から戻ったときは、からだをきよめてから食べるなどの決まりもありました。

その他にも、さかずき、水差しなどを使用する前に洗いきよめる決まりがありました。

このように、昔からの言い伝えで守る決まりが、ユダヤにはたくさんありました。

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これら昔からの言い伝えは、神様から来たものではありません。

しかし、食前に手を洗うなどは、親が子によく教えることであって、衛生上の理由があります。

したがって、お一人おひとりが、衛生を保つ範囲で守る内容になります。

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しかし、多くの人々は、これらの人間同士の言い伝えを、神の律法と同じように厳守すべきと思い込んでいました。

律法ならぬ、口伝律法になっていたのです。

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そうなると、手を洗う決まりが、本来の衛生上の理由から離れます。

ある者は、周囲の叱責を恐れ、手を洗うことに神経質になります。

また別のある者は、周囲の目を盗んで、形式的に手を洗うことになります。

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イエス様は、このような者たちを、偽善者と呼ばれました。(マルコ伝,7章6節を参照)

彼らは、言い伝えという人間の命令を、神からの命令と偽装して、我知らずに周囲を騙していたからです。

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そこで、イエス様は、イザヤ書の29章13節を引用して、こう言われました。

彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。(マルコ伝,7章7節より)

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【み言葉】や、【教え】と呼んでよいのは、神様とキリスト由来の内容のみです。

それ以外の人間から発した言葉を、”み言葉”や、”教え”と呼ぶのは、相手の歓心を買いたいゆえに、偽善になります。

そのような偽善を続けていれば、言った側も、言われた側も、いずれのときに道を誤ることになります。

人間の命令には、そもそもの理由があります。その範囲でしっかり守りましょう。

ただし、人間の命令を、神の教えとしては、いけません。

人間の命令を神の教えとすれば、神様を礼拝したとしても、むなしいことになるからです。