【日々のレーマ】
マタイの福音書,12章1節より
そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。
【追記】
イエス様の弟子たちは、空腹のため、麦の穂を摘んで、食べ始めました。
イエス様の一行が麦畑を通る間の出来事です。
ルツ記にも見られるように、人の畑のものをと目くじらをたてない穏やかな風習があったのでしょう。
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ただ、律法に厳格なパリサイ派にとって、麦の穂を摘むことで安息日を守らないという行為は許しがたいことでした。
安息日の観点から、弟子たちに咎があるという問題になります。
そのことをもって、パリサイ派は、イエス様を批難しました。
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それに対して、イエス様は、ダビデの先例を持ち出し、弟子たちの行為を擁護します。
その上で、イエス様は、次のホセア書の箇所を引用します。
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。(ホセア書,6章6節より)
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律法の目的は、神様に喜びをお返しすることです。
その神様の喜びとは、真実の愛だと神様は言われたわけです。
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では、この真実の愛と、律法のいけにえとは、そもそもどんな関係でしょう。
いけにえは、自分の代わりです。
たとえ僅かないけにえであろうと、それを捧げるとは、物質的にも心情的にも、自分を犠牲にすることです。
そうしてみると、いけにえとは、自分を犠牲にしてもという、真実の愛を神様に示すことです。
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イエス様は、このホセア書の聖句を踏まえて、このように言われました。
この真実の愛を知っていたなら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めなかったでしょう。(マタイ伝,12章7節を参照)
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このように、イエス様は、律法の本質である真実の愛を示されます。
このことは、イエス様が、律法の成就者たるキリストであることを、ご自分で示されたことになります。
そして、イエス様は、次の言葉でパリサイ派への返答を締めくくります。
『人の子は安息日の主です。』(マタイ伝,12章8節より)
この締めくくりの言葉こそ、イエス様が律法を成就するキリストであることを、如実に物語っています。