【日々のレーマ】
コリント人への手紙第二,5章13節から14節より
私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。
【追記】
ここで、神のために正気でないとは、狂信や盲信するといった類の話ではありません。
狂信や盲信する人は、神ではなく自分を中心にしています。
つまり、狂信や盲信は、自分のためですから、神のために正気でないとは、まったく逆の意味になります。
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パウロは、神のために正気でないことの理由をなんと言ったでしょう。
キリストの愛が私たちを捕らえているからだ、と言いました。
もしも、愛する我が子が川で溺れていれば、その親は、命をかけても川に飛び込むでしょう。
このように、愛する者に対して命がけになれる状態。
これが、キリストの愛を知った状態、すなわち愛する者のために正気でなくなる状態です。
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塚本訳聖書では、次のように言葉を加えて、この聖句の意味を補っています。
なぜなら、もし(非難されているように)わたし達が「気が狂った」のなら、神に対して(熱心だから)である。もし正気なら、あなた達に対して(そのためを 考えるから)である。なぜというか。キリストの愛がわたし達を駆り立てるからである。
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ここで、パウロがそうであるなら、その師であるキリストもまた、神のために命がけの御方と分かります。