キリストの唯一性について

【日々のレーマ】

ゼカリヤ書,14章8節
その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。

【追記】

ゼカリヤ書の14章におけるエルサレムは、争いを繰り返して悲しみの渦中にある特定のエルサレムとは限りません。

エルサレムは、主の足台の意味であって、天上地上を移動されるキリストがおられる場所になります。

つまり、いのちの水は、どこかの土地から湧くのではなく、キリストご自身を源泉とします。

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預言者エゼキエルも、このいのちの水について、幻の中で次のように見ています。

この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。(エゼキエル書,47章9節より)

このように、いのちの水とは、万物すべてに創造本来の価値を付与し、活かす真理であって力なのです。

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ここで大切なことは、いのちの水が湧き上がる源泉は、キリストをおいて他にないということです。

キリストをかかげる人々も、そのための教会や組織も、いのちの水を流す川であって、いのちの水が湧き出すキリストには代われません。

いのちの水は、キリストその御方が、唯一の源泉になるのです。

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そのことを、ゼカリヤは、いのちの水が唯一の源泉から湧き上がるさまをみて悟ります。

その悟りは、ゼカリヤの口から次の言葉になります。

主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。(ゼカリヤ書,14章9節より)

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このゼカリヤの言葉は、イエス様が、キリストご自身として次のように語られる通りです。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネの福音書,14章6節より)

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ここに、イエス様の内なるキリストの唯一性が明らかに説明されていることになります。