【前回のコメントより】
ローマ人への手紙5章3節~4節より
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す
【追記】
前回のコメントで、【練られた品性】の他の訳語について、教えていただきました。
口語訳や文語訳の聖書は、この部分を【練達】と訳します。
欽定訳の聖書は、【experience(体験によるもの)】と訳します。
それぞれに、翻訳された方のご苦労が忍ばれる訳語になります。
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いずれの訳語においても、パウロがいう【キリスト者の信仰】は、苦難を甘受して忍耐することで、品性を練り上げて高めるといった、文脈の意に理解されます。
それは、キリスト者の信仰には、人格を完成するための修練や修行が伴うということです。
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後々の世において、パウロ書簡の断片をもって、[信じた瞬間に救われる]といった、いわゆるパウロ神学が人間の手によって強調されることになります。
しかし、先の聖句箇所に限っては、[信じた瞬間に救われる]とはちがいます。
[信じた瞬間に救われる]というのは、人格が未完成なのに、あまりに近すぎるゴールでしょう。
信仰によって行動して、人格が完成して、神様に義とされるまでに成長期間が必要です。
その成長期間を伴う信仰こそが、【義とされる信仰】といえるでしょう。
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また、そのように理解することで、「自分は信仰によって救われたはずなのに、なぜ自分は・・・」と、自分に失望することがなくなります。
なにしろ、成長期間の途上にあるのですから、先があります。
今だめだとしても失望する必要はないのです。
冒頭の聖句のあとに、パウロの話が失望ではなく、まったく逆の[希望]へと続くことにも、注目してください。
こういう[希望]の話になります。
練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ロマ書、5章4節から5節より)
私たちキリスト者は、その分に応じて、信仰に伴う成長期間を進んでいます。
だからこそ、失望に終わらない希望を持てるのです。