【日々のレーマ】
ローマ人への手紙5章3節~5節より
苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
【追記】
善人は、正論で考えます。
そのために、善人の次元においては、考え方に非の打ち所がなく、自己完結型で一定の結論に至ります。
冒頭の聖句も、善人であれば、正論で解釈し、一定の人生訓を得ることでしょう。
そのため、皮肉な結果として、善人は、往々にして、神様やキリストを人生の中で不要にしてしまっています。
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つまり、善人は、聖書やキリストのみ言葉を、神様とキリストといった存在を読み飛ばして、良質な人生訓として学ぶことができるということです。
そのような信仰が習慣になると、聖書やキリストのみ言葉は、毎年たくさん出るビジネス書のたぐいと同じ価値になっていきます。
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しかし、それはそれ以上のプラスではないどころか、時と場合によってはそれ以上のマイナスにもなり得ます。
典型的な事例があることを知りましょう。
キリスト教から、神様とキリストを切り離して、人間中心に再構築することで、共産主義というマイナスを人間は作りました。
善人ほど、共産主義が切り離した神様とキリストとの関わりを不要にしてきたため、共産主義のマイナスを正しく指摘できませんでした。
そのため、20世紀どころか、21世紀になっても、共産主義のマイナスは人々を不幸にしています。
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以上のことを踏まえて、冒頭の聖句を、神様とキリストとの関わりにおいて読んでみましょう。
それには、ロマ書5章1節から読む必要があります。この始まりの箇所には、神様とキリストとの関わりがしっかり書かれていたからです。
神様とキリストとの関わりを読み飛ばさずに、こう読んでみましょう。
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ロマ書、5章1節から5節より)