【本日のリマ】
コリント人への手紙第一14章13節
そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
【追記】
ここで、パウロが語る異言や預言は、聖書の中の正式なものではありません。
教会や生活の中で出現する、日常的な異言や預言のことです。
そのような異言も預言も、御霊の賜物には変わりません。
パウロは、そのどちらも大切なことを認めています。
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ただ、異言は、聞く者にとって、ことばの意味が分かりません。
そのため、異言は、聖霊を受けた個人が成長するに留まり、教会としての発展は望めません。
そこで、冒頭の聖句のように、異言という御霊の賜物には、解き明かしが必要になるというわけです。
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一方、預言については、意味が分かりやすく、人々に速く伝わるため、教会は成長します。
ただし、パウロは、預言についても、次のような注意をしています。
預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。(コリント第一14章29節)
預言する人は、神でもキリストでもないので、仲介する者の人格的なフィルタを通ります。
そのため、偽預言や、勝手な解釈をしないため、ほかの者たちによる吟味が必要になるというわけです。
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さらに、パウロは、預言(ひらめき)にみる霊的背景について、次のような注意をしています。
預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。(コリント第一14章32節 )
神の御霊(聖霊)である限り、人を霊的に支配することはありません。
神様は、人の自由責任に、強制介入しないからです。
(もしも、神様が人間の自由責任に強制介入するつもりだったら、この世をもう取り戻しているはずです。)
このように神様ご自身が霊的に支配しないのに、人が霊的に支配されていたなら、それは、神ならぬものが支配していることになります。
その場合、預言の内容に少しの真実があろうと、最終的には神様からずれることになります。
例えるなら、この世で騙され、最後にオレオレ詐欺だったと気づくような顛末になります。
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霊現象だからと有難がって、異言や預言を妄信することは、慎むべきです。
それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。(コリント第一14章15節)
パウロの言葉は、日常の異言や預言に対して、霊だけでなく、知性において向かい合うことを勧めています。