【本日のリマ】
エペソ人への手紙4章9節
「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。
【追記】
現代において、イエス様の評判を悪くいう人は、殆どいないでしょう。
しかし、当時は逆でした。
イエス様のことは、悪霊のかしらとまで言われていたのです。
なぜでしょうか。
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イエス様は、大工ヨセフの家で、母マリアから、私生児のかたちで産まれます。
そのイエス様が育った場所は、ナザレの町になります。
ナザレから何の良きものが出ようかと、偏見の目で見られる下層階級の出身でした。
そんなイエス様を、ユダヤ教の正統を自認するパリサイ派の多くは、目のかたきにしました。
一般の多くの人々にとっては、それらの風評を先入観として、イエス様を判断することになります。
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仮に、イエス様が、格式の高い家柄で、上流階級の出身で、さらにユダヤ教の正統な後ろ盾があったらどうだったでしょう。
人々にとって、イエス様を受け入れることは、もっと簡単だったはずです。
しかし、神様は、キリストであるイエス様に、そのような立場を与えていません。
あくまでも、人間の責任分担において、イエス様をキリストとして迎える必要がありました。
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イエス様の当時と同じように、生身のキリストが現代に登場されたら、そのときどうなるでしょう。
昔と比べて、無神論などの理屈が、明らかに多い現代です。
イエス様のとき以上に、人間のてんびんで、キリストを量ろうとするでしょう。
そのようにキリストを人間のてんびんで量れば、イエス様のときと同じく、キリストを迎えることは難しくなるでしょう。
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このことを、イエス様はこう注意されています。
人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18章8節)
キリストは、人間が作ったてんびんではなく、信仰をもって本質で量るべき方であるということになります。