嫌われるエレミヤ

【日々のリマ】

エレミヤ書19:7
また、わたしはこの場所で、ユダとエルサレムのはかりごとを打ち砕く。

【追記】

預言者は、先の明るい預言を言うだけではありません。

どちらかと言えば、警告の意味を含めて、王や民衆にとって耳の痛いことを言うことが多かったでしょう。

エレミヤの場合、特にその傾向が強かったと思われます。

冒頭の預言を聞いた祭司パシェフェルは、エレミヤの預言は聞き捨てならないと、エレミヤを打ち、門のところで足かせに繋ぎます。

翌日になって、祭司パシェフェルは、エレミヤの足かせを解きます。

さすがにエレミヤもこれで懲りただろうと。

ところが、さらにエレミアに主の言葉が臨み、目の前のパシェフェルに厳しい預言(警告)をするのでした。

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エレミヤには私心がないことがよく分かります。保身のためなら言わないからです。

ただ主に忠実であろうとして、エレミヤは王や民衆から嫌われます。

イエス様も、私心なくキリスト(受肉した神様、神の御子)であることを語ります。しかし、当時のユダヤ人たち(特に祭司やパリサイ派)にとっては、それが神聖冒涜としか思えません。ついには殺意さえ持たれました。

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私心のないエレミヤやイエス様に対する怒りの原因は、その言葉を聞く側の私心にあります。

聞く側の私心が、判断を曇らせるのです。

まず、聞く側は、語る側に私心があるかないかを判断する心構え(祈り)が必要です。

そして、話す側に私心がないなら、聞く側はその言葉を私心なく判断する必要があります。

そうであれば、エレミヤもイエス様も迫害は受けなかったでしょう。