主の書物を調べて読め(その二)

【日々のリマ】2023年2月12日(日)

イザヤ書34:16
主の書物を調べて読め。これらのもののうち、どれも失われていない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである。

【追記】

イザヤ書34章は、エドムの地は住む人がなく、野の動物たちが住むという預言です。

34章の全体で、そこに住む野の動物たちの様子が事細かに描写されます。

ところが16節になって急に《主の書物を調べて読め》の一文が登場します。

この一文を感嘆や小休止と考えれば、16節以降も野の動物たちの描写が続くことになります。

そう読んでも違和感はありません。(以前はそのように考えていました。)

しかし、この16節の一文で、前後の文意が転回したと考えると、それ以降の解釈が違ってきます。

そもそも、エドムの動物たちの様子を「野生の王国」とばかりに描写する必要があったのか・・という疑問からです。

野の動物たちの様子は、《主の書物を調べて読め》のための伏線(比喩)だったのではないかと。

つまり、【主の書物】は、野の動物たちのように・・人の手が及ばず、野に放おって置かれているぞとなります。

たとえ手つかずであろうと・・今も昔も、主の書物は《どれも失われていない(16節)》。

主の書物は、全体が補完し合って《それぞれ自分の伴侶を欠くものはない(16節)》。

なぜなら、主の書物は《主の口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである(16節)》。

これら主の書物は一度には与えられません。《主はこれらのもののためにくじを引き、御手が測り縄で測って彼らに分け与え(17節)》るように、主が与えられるからです。

そのために、人の手がつかない主の書物であっても、《彼らはとこしえまでもこれを所有し、代々にわたってここに住む(17節)》ようになります。

・・となります。

主の書物は、それが与えられた時代の人々のためだけではありませんでした。

時代を超えて、過去も未来も、常に新しいメッセージとなっています。

昔は手つかずであった《主の書物》が時代を超えて手元に届くことに感謝いたします。

それはいつの世にあっても、新しい生命を生み出して下さいます。