主によって闇から光へ

【日々のリマ】2023年2月4日(土)

哀歌3:2
主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ、

【追記】

哀歌3章は、我が身の罪ゆえに苦しい人生にあったことを自覚するところから始まります。

私は、主の激しい怒りのむちを受けて、苦しみにあった者。(哀歌3:1)

私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、(哀歌3:8)

人は主の助けを求めても、慢心に巣食う罪は暗闇を突き進みます。

むしろ罪深さから、神様は怖いだけの存在になります。

とうとう心の闇は被害妄想を生み出し、神様への怨みつらみとなります。

(主は)私の道を切り石で囲み、私の通り道をねじ曲げられた。(哀歌3:9)

(主は)私の歯を砂利で砕き、灰のなかで私を踏みつけられた。(哀歌3:16)

しかし、人は怨みの底で立ち止まります。

それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。主の恵みを」(哀歌3:21-22)

そこで初めて大切なことに気づきます。人は何に気づいたのでしょうか。

実に私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。(哀歌3:22)

人は、あんなにも苦しみもがいて神様に反抗していたのに、滅び失せていないという驚きの事実に気づくのです。

そして、それが尽きることのない主のあわれみの愛だったと気づくのです。

そこから人生に光が指します。毎日毎日が違うのです。

それは朝ごとに新しい。(哀歌3:23)

そうなると、過去の苦しみまで違って見えます。

人が、若いときに、くびきを負うのはよい。(哀歌3:27)

それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。(哀歌3:28)

主が人の子らを、意味もなく、苦しみ悩ませることはない。(哀歌3:33)

主に立ち返った「私」の人生への感謝は続くのです。