無謬主義のあやまち

【日々のリマ】2023年1月19日(木)

ヨハネの手紙第一1:8
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

【追記】

人間は、アダムによる原罪を負っています。その原罪が陋習(悪い習慣)である限り様々な堕落性が生じます。その堕落性によって人は思わぬ過ちを起こします。

テレビで弁護士同伴の会見をみると、あえて謝罪を避けるシーンが多々あります。

一旦謝罪すれば罪の自白と取られるため、やむを得ない弁護士のアドバイスなのでしょう。

しかし、罪の自覚なしが心の偽りであれば、義の神様を遠ざけることになります。

仏教の親鸞さんに【善人なおもて往生を遂ぐ、況(いわ)んや悪人をや】という言葉があります。

「悪人こそ自分の罪が分かるのだから、ひたすら救いを求めて信仰し、やがて悔い改めて回心に至るだろう」という意味です。

その逆になる言葉は、【無謬(むびゅう)主義】になります。

無謬主義は、自分は常に正しい(はず)と、過ちがあっても認めない主義です。心の暗闇に過ちを隠すことになります。

そんな無謬主義は、罪感が不足するので、神様を真摯に求めません。

場合によっては、開き直って自分を騙す詐欺師になりかねません。

そんな詐欺師にも神様は良心を授けているので、神様の前に心の暗闇は震えるでしょう。

ヨハネの第一の手紙には、心の暗闇に隠した過ちから心を解放するために、こう書いてあります。

神は光であり、神には闇が全くないということです。(ヨハネの手紙第一1:5)