慚愧のユダ

【日々のリマ】2022年12月30日(金)

マタイの福音書27:5
そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。

【追記】
イスカリオテのユダの行動を見てみます。

(1)イエス様を裏切ろうとしていたユダは、「先生、まさか(裏切るのは)私ではないでしょう」と言っています。

(2)また、ユダは、イエス様に近づき「先生、こんばんは」と言って口づけし、祭司長らにイエス様を捕まえさせています。

これらのユダの行動から何を感じるでしょう。

本気で裏切るつもりなら、裏切ることになるイエス様や弟子たちから、もっと真剣に隠れたでしょう。

それなのに、ユダは、イエス様の前に出て、わざわざイエス様の目を引くように行動しています。

あたかも、「自分を見てもらいたい」、「自分を承認して欲しい」といった短絡的で幼稚な動機があるようです。

これが、キリストであるイエス様の近くにいながら、イエス様に宿る神性(100%神様)を見ることができなかったユダの姿でしょう。

そんなユダは、イエス様が死刑に定められたのを知って慚愧に耐えられなくなります。

それが、冒頭の聖句の行動にあらわれています。

ここまで身の置所がないほどの慚愧をユダは感じていました。

その後のユダの過ちさえなければ、三日後に復活するイエス様はユダにあらわれたかもしれません。迫害者であったサウロ(後のパウロ)にもあらわれたイエス様ですから。

そして、イエス様に再び出会ったとき、ユダが内に働く良心の声を聞きさえすれば、時はかかろうとも二度とサタンに騙されまいと立ち直ったでしょう。そのときがユダが二度目に生まれる重生の時だったかもしれません。