律法は人をキリストに導くもの

【日々のレーマ】2022年11月28日(月)

ガラテヤ人への手紙3:22
しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

【追記】
当時のガラテヤの教会は、律法に熱心な元ユダヤ教徒が力を持っていたようです。
その人は、ユダヤ教に熱心だったあまり、律法の遵守を教会内に強要し、それによる救い(もしかすると破れば破滅という恐怖?)を人々に説いていたかもしれません。

それは信仰とは逆のものです。
自分の行動で救われるのなら、信仰つまり神様もキリストも不要に思えてしまうからです。

極端な自助の教えになってしまいます。

律法を説く旧約聖書(詩篇)にあっても、たましいの救いは神様がなされるとあります。

詩篇49:15【 しかし 神は私のたましいを贖い出し よみの手から 私を奪い返してくださる。】

要するに、ガラテヤ教会のその人は、律法においても偏った立場にあったと思います。

律法の遵守を5%の条件とすれば、残り95%の大きな埋め合わせは、神様による一方的な恩寵です。
神様が、人間のわずかな条件をとって、残りの負債を帳消しに(蕩減)してくださるということです。

パウロは心配して、ガラテヤの教会に書簡を届けます。
聖書(律法)は、放縦による罪に陥らないように人々を養育したのです。
その養育は、人々を天から来られるキリストに導き、救いに至らしめるためですと。