【日々のレーマ】2022年10月16日(日)
エゼキエル書 8:5
その方は私に言われた。「人の子よ。さあ、目を上げて北の方を見よ。」私が目を上げて北の方を見ると、なんと、北の方の祭壇の門の入り口に「ねたみ」という像があった。
【追記】
【「ねたみ」という像】とは、神様が《ねたみ》を感じる偶像(神ならぬもの)のことです。
この神様が感じる《ねたみ》は、人間の堕落性の感覚で考える《ねたみそねみ》とは違います。
人間の堕落性である《ねたみ》は、自分以上の価値ある存在に対して《うらやむ》という気持ちから生じる負の感情です。
しかし、神様は、全知全能であって、被造世界の創造主です。
神様を上回る価値は、そもそも存在しません。
そのため、神様が、ご自分以上の価値ある存在を《うらやむ》ことは普通ありません。
したがって、神様は、人間の堕落性である《ねたみ》という負の感情とは程遠い存在です。
神様の《ねたみ》は、別の意味です。
神様には、被造世界を創造し、人間を創造するに当たって、創造の理想がありました。
人に例えるなら、自分の家庭はこうありたい、自分たちの関係はこうありたいといった理想があったということです。
その理想が他人に奪われ、成就しない時に、私たちはどんな気持ちを感じるでしょう。
憎悪ではありません。理想とかけ離れてしまった現実に対して、ただただ哀しい悲しいという感情です。
それを《恨》の心情といいます。
このように、理想を奪われ、成就できず、理想とかけ離れた状況に対して感じる《恨》の心情こそが、神様が感じる御心《ねたみ》と理解しましょう。
全知全能であって栄光の神である一方で、人間の堕落によって、《ねたみ》の神、《哀しみ》の神、《囹圄(れいご)》の神になられたというお姿が見えてきます。